【ネタバレ注意】映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の感想
クソ映画派と神映画派で分かれているこの映画ですが、個人的には至極単純に「我々の求めていたエヴァではなかった」に尽きると思っています。
理由としては、ストーリーの内容云々というよりも、シン・ゴジラ同様「話せば分かる世の中の理をわざわざストーリー仕立てにしてあげている点」と、「映画の私小説化(私物化)が激しかった点」にあります。
今回は上記2点について個人的に思うところと、各章での感想をざっくばらんに書いていきたいと思います。
単純論理をストーリー仕立てにして感動を煽る点
これはシン・ゴジラで例えると「ゴジラという巨大生物(大災害)が登場した際に、民主主義の政治では緊急事態においても稟議が多く対応が遅れる」という至極単純な論理(教科書で習う内容)をストーリー化し、文章では分からない人々に「民主主義の脆さ」を教え仕立てあげました。
今回のシン・エヴァも同様で、「LCLの海でしか生きられないアヤナミレイ(仮称)が人々と同じ生活を送ったらどうなるか」をストーリー仕立てしただけのものでした。
が、そこにとても反響は大きく、アヤナミが小さなことを1つずつ覚えて成長していく過程、とその一方で普通の生活では生きられず命を落とす過程に、3.11を投影した方も多かったと思います。
これ自体が悪いとか思いませんが、我々の観てきたエヴァという作品(ストーリー)は、「難解かつ考察が出来るもので、と見せかけてどこかに矛盾点がありつつ、複雑な人間関係やそれらによって生ずる愛憎」でした。
ですからここに突然シン・ゴジラ流のストーリーを混ぜてもらうと困るのです。
我々はもっと、例えば「フォース・インパクトを起こし意気消沈しているシンジの元に死んだはずの別の世界線からやってきたカヲル君がやってきて、「(not)と(not)の付いていない世界を全て清算すれば、エヴァに乗らなくていい未来が訪れる」と教え、それを機に一念発起したシンジがもう一度エヴァに乗り世界と立ち向かう」とかです。
ラストは例えばユイ・ゲンドウ・シンジが揃う家庭で、アニメのように例えば幼馴染のアスカに手を引かれながら学校に走っていく、とかであれば最高でした。
が、現実はそうではなく、シン・ゴジラさながらの「言えば分かることを映画化してみた」でした。
映画の私小説化(私物化):庵野と安野の物語
あるエピソードでは、エヴァの総監督である庵野秀明が、アスカ役の宮村優子に告白していた、というものがあります。
その願望(宮村優子:アスカとくっ付く)が表れているのがアニメ・旧劇場版で、シンジはアスカと愛憎渦巻く気持ちを抱きながらも、主人公とヒロインは世界に2人だけになりました(まあその後生まれ変わるストーリーが作られていくのですが)。
アニメ・旧劇場版が終わったところで出会ったのが現在の庵野秀明の妻・安野モヨコで、シンジが庵野の投影であれば、安野を投影するキャラクターと、アスカをヒロイン格から落とす必要がありました。
そこで出来たのがおそらく真希波と式波かと思います。
式波・アスカはケンケンとくっ付き、シンジ(庵野)は真希波(安野)とくっ付き、2人だけで(他キャラクターは虚構に残したまま)現実世界(山口県宇部市)へ走っていく。
そんなストーリーになりました。
元々庵野の精神状態を投影されたアニメなんだし、と上記を受け入れられた人もいるかもしれませんが、私としては「過去好きだった人に告白」したり、「現在の妻とベタベタ」したりするのは、アニメ・旧劇場版を観ていた側からするとストーリーの逸脱が見られ、あまり気に入りませんでした。
一言で言うと「シンジに精神状態は投影しても、映画自体まで私物化するな」です。
ざっくばらんな映画の感想(箇条書き)
- マヤの「これだから若い男は」。旧劇場版なんかでは巨大リリスに超怯えてたりしてたので強くなったなと感心した
- マリ「どこにいても必ず見つけ出してあげるからね、ワンコ君」、シンジに突然そんな思い入れ強くなるか?違和感大
- レイが委員長(や他の女性にも)に1つ1つ訊いては理解していくシーン、「子供は女が教育するもの」みたいな固定観念が見え透いてて気持ち悪かった
- アスカ「ケンケン」+裸。そういう関係になっていることの表し?
- ていうかケンケン、髭とか加持さんに似てる。前世で加持を大人の象徴として求めていたことの引き摺り?一方で加持と対比して全然仕事してないんだが
- アスカにもDSSチョーカーあり。使徒の力を私物化しないように?
- アスカ「サードのことを好きになるように設計されてる」。庵野そんなみんなにモテたくて堪らないのか?
- アスカがシンジに「好きだったわよ。でも私の方が先に大人になっちゃったわね」。それに対しラスト近くでシンジが「僕も好きだったよ」。そこで惣流かつ照れてるなら大人になったシンジなら一緒になれるんじゃない?なぜお互いを引き離す?
- レイ「名前、決めてくれた?」→ユイがゲンドウに訊くシーンの対比?
- 加持リョウジ君、父親と同じ名前ってやばすぎ
- マリ、アスカにべったりしてるがラストはシンジ。漫画と違ってバイ設定?
- リツコが躊躇わずにゲンドウに発砲出来たのはアニメ・旧劇場版との違って生まれ変わってることを象徴してた感じ
- サクラの「怪我したらエヴァに乗らんでいい、痛いけどちょっと我慢してくださいね」、メンヘラすぎて暗いシーンなのに笑う
- ミサトとシンジの抱擁。もう大人のキスをして無理に大人にする必要はなくなったんだね。一方で、シンジ君そんな急に大人になれるシーンあったか?
- ゲンドウ・シンジの親子対決、いきなり特撮化してシン・ウルトラマンの番宣だろやめろってなった
- あとゲンドウ、インパクトの意味を早口で喋りすぎ。それぞれ意図してたし意味はあったんだろうけど視聴者を置いてけぼりにしないでくれ
- ミサト、生まれ変わっても死に方格好良かった
- ゲンドウがシンジを見て「ユイ、そこにいたのか」ってやっと気付くシーン。遅すぎ
- エヴァを全てガイウスの槍で刺す時にユイがシンジを突き放す。ユイがこのために初号機内に意図的に取り込まれてたのだとすると、全てはゼーレとユイのシナリオ通りってこと?ユイの先読み力
- 予想通りアニメ・旧劇場版から序・破・Qは全て繋がっていた(転生後の世界)
- カヲルの「今度こそ君だけは幸せにしてみせるよ」はループ説を知っていたと思われる。アダムシリーズ・ゼーレは色んな世界線の記憶あり?
- シンジ、なぜ大人=スーツという安易な解釈の格好で現れるの?笑う
- 真希波、「胸の大きないい女」とか昔好きだった女の息子に覚えさせてるの気持ち悪すぎ
- あとDSSチョーカー誰も外してくれてなかったんかい、なのに大人にはなれたんかい、そして真希波は外せるんかい
- レイとカヲルとアスカは虚構にいるまま、シンジと真希波だけ駅から出て現実に走っていく。え、自分達だけ虚構からさよなら?(真希波は「波」って付いてるけど人造人間じゃないの?同じ人造人間ならアスカで良かっただろもう)
- 総論:詰め込みすぎてよく分からなかったし、単純論理をストーリーに混ぜてくるのと映画の私物化は絶対にやめろ
【ネタバレ注意】映画「マリッジ・ストーリー」の感想
以前から観たいと思っていたものの、Netflix限定なため、なかなか観れずにいたのですが、転職先で英語を使うことになり、1ヶ月お試し会員から入会してみたので、さっそく観てみました。いつも通り、忘れない内にざっと考察を述べておきます。
まあまずは簡単にあらすじを。
結婚生活がうまく行かずにすれ違う、女優のニコール(スカーレット・ヨハンソン)と、その夫で監督兼脚本家のチャーリー(アダム・ ドライバー)。二人は円満な協議離婚を望んでいたが、これまで閉じ込めてきた互いに対する積年の憤りが露わになって衝突、離婚弁護士を雇って争うことになるのだが……。
あらすじ通り、最初は円満な協議離婚をしようと、お互いの長所を言い合う場を設けたりする訳ですが、妻のニコールが拒否します。当初のお互いの長所を言い合う流れからすると大変円満な夫婦に見えるため、なぜニコールが拒否するのかは謎に終わるのですが物語が進むと同時に、その謎は解けてきます。
自己愛が強く、人を支配下に置いておかないと気が済まないチャーリー
チャーリーはニコールの挙げた長所にあるように、良い父親・夫としての側面を持っており、一見すると普通の、いやむしろ良い父親であるように見えます。が、それは前述の通りあくまで側面であり、実際は、妻や子供を自分の支配下に置きたがる上、自己愛が大変強く、自分の我慢や痛みには大変敏感にも関わらず、他者の立場に立って物を考えられない・他者の我慢や痛みに非常に鈍感です。例えば、ニコールが自身のキャリアアップを図るために監督をやりたいと何度か申し出ても握り潰したり、離婚調停中に決まった息子と共に居られる日は息子よりも規程を重視し、嫌がる息子を無理矢理自身のLAの別宅に連れ帰ったりしてきます。また、ラスト近くに離婚調停となったことでお互いの負けず嫌いが発揮され、なかなか決着が付かないことに痺れを切らし、二人で話し合おうとニコールが提案しても、自分がこれまで我慢してきたことを怒鳴り散らし、壁には穴を開けた上、最終的には「何が間違っていたんだ」と泣き崩れてしまう始末です。これは映画が始まって割と最初の辺りで明かされますが、暴力の酷い機能不全家庭で自立して育ったアダルトチルドレンであり、そのため、自身で自身を愛していくことで自分自身を満たすことしか出来なかったのではないかと考えられます。
大人に見えて他者に責任転嫁しがちなニコール
ニコールはチャーリーと比較すると比較的大人な風に見えますが、ニコール自身も、キャリアを潰されてきたことや、LAの実家に行く約束を反故にされたことを、チャーリーや他者に責任転嫁して何とか自尊心を保とうとする傾向が見られます。また、チャーリー同様負けず嫌いなところがある上、流されやすいところがあるため、弁護士の言いなりになってチャーリーを陥れたりと、少し子供な面が見られます。
なぜ二人は離婚しなければならなかったのか・離婚は何を意味しているのか
冒頭にあるように、二人はお互いの長所と短所を良く理解しており、円満に暮らしていけるようにも見えます。ただしネックになるのは、チャーリーの膨大な自己愛と支配欲です。これが結婚相手・子供に発揮され続ける限り、ニコールは自身のキャリアを描いていけることはないでしょう。そのため、ニコールはチャーリーを愛していながらも、自身のキャリアを描いていける人生(チャーリーの支配下から脱出する)を選んだのだと思われます。
なぜニコールはチャーリーに最後まで長所を伝えなかったのか
離婚調停をせず、円満離婚を図るため、当初はお互いの長所を言い合おうとする場面がありましたが、ニコールはそれを拒否し、結局図れませんでした。これはチャーリーの自己愛の強さをわかっているからこそ、「自身が理解しているチャーリーの長所<チャーリーの理解しているニコールの長所」という図式が成り立ち、自身が追い詰められると考えてのことだと思われます。ここで言ってしまえば、自身が不利な立場に置かれてしまうと察し、また周囲に流されたこともあり、離婚調停に踏み切ることになったのだと思われます。
また、それがラストに明かされることで、泣きながらそれを読むチャーリーと、それをドアの傍で泣きながら見守るニコールという、感動的なシーンに繋がっているのだと考えられます。
余談:アカデミー賞受賞/ノミネート一覧
アカデミー賞ノミネート:作品賞
主演男優賞 アダム・ドライバー
主演女優賞 スカーレット・ヨハンソン
脚本賞
作曲賞
【ネタバレ注意】映画「マネーボール」の感想
野球映画でありながら、主演のブラッド・ピットがGMを演じる映画「マネーボール」を先日やっと見てみたので、忘れない内にざっと記録や考察を述べておきます。
まあまずは簡単にあらすじを。
メジャー経験のあるプロ野球選手から球団のフロントに転身するという珍しいキャリアを持つビリー・ビーン(ブラッド・ピット)。風変わりで短気なその性格は、若くしてアスレチックスのゼネラルマネージャーになってからも変わらなかった。自分のチームの試合も観なければ、腹が立つと人や物に当り散らすという、癖のあるマネジメントを強行。そんな変わりダネが経営するアスレチックスは弱かった。しかも、貧乏球団のため、優秀で年俸の高い選手は雇えない。チームの低迷は永遠かと思われ、ワールド・チャンピオンの夢はほど遠かった。だが、野球経験はないものの、データ分析が得意なピーター・ブランド(ジョナ・ヒル)という球界の異分子と出会ったことで、風向きが変わり始める。ビリーは後に“マネーボール理論”と呼ばれる“低予算でいかに強いチームを作り上げるか”という独自の理論を実践。だがそれは同時に、野球界の伝統を重んじる古株のスカウトマンだけでなく、選手やアート・ハウ監督(フィリップ・シーモア・ホフマン)らの反発を生み、チーム状況が悪化。それでも強引に独自のマネジメントを進めてゆく。その揺るぎない信念は、徐々にチームに勝利をもたらし、誰も想像しなかった奇跡が…。
- 発売日: 2012/03/21
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マネーボール理論を簡単に説明しておくと、「評価は低いものの、出塁率の高い選手を起用することで、低予算という制約の中でいかに勝利するチームを作り上げるか」という、画期的なセイバーメトリクス(野球理論)を指します。
スポーツに統計理論を用いて勝利にこだわるビリーとピーター
ビリーとピーターの性格は殆ど真逆と言っても過言ではありません。ただし、二人の共通点はあります。
ビリー(GM):かつて自身も超高校級選手としてニューヨーク・メッツからドラフト1巡目指名を受けたスター候補生だった人物、かつ、名門スタンフォード大学の奨学生の権利も持っていた、文武両道の秀才でした。しかし、基本的に飄々かつマイペースで、自分のチームの野球は見ない、負けたら物に当たる、マネジメントにも務めない。それでも勝利を手にしたいと願っている最中、自身が実際はプレーヤーとしては成功出来なかった経験から、データ分析が得意なピーターに目を付けます。貧乏球団ながらに、育てては別球団に買われていく中、野球理論を用いて、欠如した団員を補完していく計画を思い付き、ピーターにその統計学での分析役をしてもらい、なんとしてでも勝利を勝ち取ろうとする。
ピーター(統計学を操る相方):名門イェール大学経済学部を卒業した秀才。弱小チームながらに勝利を勝ち取ろうとするビリーに目を付けられ、その日に彼に買われ、セイバーメトリクスという野球理論を用いながら、安いながらに勝利を導くと考えられる選手候補を洗い出し、選手買いを手伝う。ビリーとは性格は真反対かのように大人しく、部屋に籠ってデータ分析に取り組む。ただし、ビリー同様、どういった育成やマネジメントをするかではなく、どのようにして勝つか、手にすべきものは「勝利」だと考える。
上述したように、彼ら二人は野球団員の「高額買取」や「育成」、「マネジメント」ではなく、‟貧乏球団という制約条件の中で、いかに勝利を手にするか”ということだけに興味があり、そこに情熱を注ぐという共通項を持っている。
作品全体として派手さはないが、映画中盤の、二人が協力して目的の選手をトレードしてゲットするスピード感満載のやり取りは見どころ。
金持ち球団に対抗する貧乏球団の、統計学を用いた記録的勝利
セイバーメトリクスを採用しても、最初はなかなか効果が出ず、選手や監督達からは見放されかけていたが、ビリーとピーターは野球理論を信じ続け、ある一定の対戦をこなした後に訪れる「勝利の幕開け」を願い続ける。そして、ビリーとピーターの願い通り、セイバーメトリクスは効果を発揮し、前代未聞の20連勝を記録する。「それは記録に残ることだ」と連勝を祝うピーター。対して、「次で負ければ忘れ去られる」とワールドマッチでの勝利を望む。
同じ「勝利」へのこだわりがあっても、「記録」に思い入れを残すピーターと、「継続的な栄光」を望むビリーの態度が対照的に表現される。
レッドソックスからのDMオファーをなぜ断ったのか
ビリーはワールドマッチでは勝利を勝ち取れなかったものの、その栄誉を称して、レッドソックスからGMのオファー(かつ前代未聞のオファー金額)を手にします。だがそれを最終的には蹴ってしまう。そこだけが視聴者に謎を残す終わり方になっているので、少し解説しようと思います。
ビリーの娘がギターを好んで弾くこと、また、父親のビリーがカリフォルニアで一人記録を目指し続けていることを誇りに思っていること、また、自身も貧乏球団に思い入れがあり、どうにかしてここで記録を作りたいと考えていること、また、使った統計学がセイバーメトリクスという「評価は低いものの、出塁率の高い選手を起用することで、低予算という制約の中でいかに勝利するチームを作り上げるか」を重宝していたことから、「制約条件のある中で、何らかの手法を用いて奇跡を生み出すこと」に固執し、そしてそれを楽しんでいたことがわかります。そのことから、お金があり、スター選手を好きに買うことが出来るような自由な世界よりも、制約条件の中で、今もまだ最高記録に挑戦し続けているのではないでしょうか。
おまけ:一瞬移るイチローの映像の意味
日本人メジャーリーガーであるイチローが、物語中盤で一瞬モニター画面に映ります。これは、「メジャー1年目から素晴らしい結果を出して、高い評価を得ているスター選手。年俸も高くて、貧乏球団のビリーでは手の届かない選手の象徴」であると監督のベネット・ミラーは語っています。つまり、スター選手とビリー達貧乏球団の差異を明確にすることで、その中で戦わなければならないことを意味しているのだと思われます。
#家出少女 に群がる大人達の闇
大阪の小6女児が誘拐・監禁され、栃木で保護された事件は記憶に新しいと共に、「(未成年者の)被害者の同意」「被害者の防犯意識の低さ」「一番悪いのは親」といったコメントが目立ったかと思います。
ではまず誘拐の定義から始め、問題を整理していきたいと思います。
目次は下記の通り。不要なところがあれば飛ばし読みしてください。
誘拐の定義
刑法では、20歳未満の未成年者の誘拐について、下記の通り定義しています。
第224条:未成年者を略取し、又は誘拐した者は、3月以上7年以下の懲役に処する。
用語の意味を補完しておくと、略取:暴行や脅迫を手段とするもの、誘拐:騙したり誘惑を手段としたものを指します。当然、本件では、被疑者は小6女児を誘拐したと判断可能と見受けられます。
「被害者の同意」の有無は論点か?
上述の刑法第224条にある通り、いくら未成年者の同意があったとしても、未成年者を誘惑している証拠が残っている以上、処罰されるべき案件です。そもそも未成年者の同意があったとしても、被疑者に出来たことは、児童相談所に案内することぐらいではないだろうか。同意があったとしても、誘拐・監禁した時点で被疑者:被害者=100:0で被疑者が悪である。
「被害者の防犯意識の低さ」は被害者に指摘すべきか?
これは事件が起きてしまった以上は「君も悪いよ」と指摘すべきではないと思います。なぜなら壮大なセカンドレイプになり得るからです。
防犯とは犯罪(被害)を未然に防ぐためのものであり、義務ではありません。財布を落としても窃盗した人間が0:100で悪いのと同じであって、言うべきタイミングがおかしいとしか言いようがない。
一番悪いのは本当に親なのか?
「子供は家で親が独自に育てるもの」という、言わば家制度は、世界的に見てもかなりマイノリティです。まあマイノリティなのは別によくって、単純に児童虐待や、家庭内ハラスメント・犯罪といった親権の濫用が後を絶たないようなデメリットだらけの制度を未だに暗黙の内に奨励しています。この制度の一番悪なのは、子供が様々な大人から多角的に見られることを阻むことで、「子供は親とは別個の人間である」という意識を喪失させやすい点かと思います。
上記が先進的な北欧と比較しても、まだまだ、0歳児・病児保育の拡充や、児童医療費無償化、育児休暇取得の奨励等、未成年に対する社会的養護の意識・施策の拡充が必要不可欠な状況かと思います。
本件において誰が一番悪いかというと、事件を起こした被疑者本人で間違いないかと思います。ですが、そこに至った経緯を作り出したのは、我々自身でもあり、虐待や誘拐等を誘発する歯車に大きく関与している意識を持つ必要がある事件かと思います。まずは自分自身に置き換えて寄り添うこと・共感すること、何が必要だったか考えること、出来そうなこと(選挙や署名等、大小関係なく何でも構いません)から始めること、それが社会が変わるきっかけになっていくと信じています。
今回の事件が、単なる不審者や不適切な躾を行う親といった至極具体的な問題ではなく、日本の社会構造の闇を浮き彫りにしていると気付く人が一人でも多いことを願うばかりです。
【ネタバレ注意】映画「天才作家の妻 -40年目の真実-」の感想
「さざなみ」「ゴーン・ガール」に続き、幸せに満ち溢れているように見える家庭がじわじわ崩壊していく(ないしは蓋を開けると崩壊している)姿をまじまじと見せられる映画として挙がりがちなこの映画。ヒューマンドラマやサスペンス好きなので先日やっと見てみました。
まあまずはあらすじ。
ノーベル賞授賞式を背景に、人生の晩年に差しかかった夫婦の危機を見つめる心理サスペンス。世界的な作家ジョゼフと彼の創作を慎ましく支えてきた妻ジョーン。理想的なおしどり夫婦に見えるふたりの関係は、夫のノーベル文学賞受賞によって静かに壊れ始める。
とまあ、上述で言う後者側の蓋を開けていくパターンの映画です。
対照的だからこそ共同執筆し、円満な夫婦関係を続けていた
ジョセフ(夫):物語の着想力を持つが、それを執筆していく能力がなく、三流作家止まり。その上、自己評価は過剰で、自己評価に見合った評価を得ようと常に必死でいる。ただし、それに反する形で自身の人生に対し不安を病的なまでに持ち、不倫により何とか平常心を保っている。ついでに言うと、甘党で豚のように食い散らかしては口周り・床を汚し回ったり、服を脱ぎ捨てて回る厄介者。
ジョーン(妻):男尊女卑思想が強く、才能はあるが文壇に登り詰めることを諦めた女性。ジョセフの着想を基に、実際の物語の執筆を可能とする才能を持ち合わせ、実際に多大な時間を費やしてきた。夫の浮気癖を何度も許し、それを作品に昇華していく等、作家としての熱情や根性は並々ならぬもの。自尊心を高く持ち、常に冷静沈着だが、感情面では40年間傷付き続けてきていた。
彼らは文学を書き続けるということ自体においては運命の相手同士だったと言える。生活の不満はありながらも、山を越え谷を越え、その不平不満を共に作品に昇華させてきた。
ただし、共同執筆とは言葉だけのもので、無神経な夫は「妻は書けない」との烙印を世間共々押し、妻も自らの職業を「Mrs. キャッスルマン」「キングメーカー」と賢く皮肉る。
運命的な出会いの思い出をそっくりそのまま使われる苦痛
ノーベル賞授賞式のため、ストックホルムに行った先での若い女性カメラマン(自身の自尊心を刺激しない相手)に、ジョセフはかつてジョーンに吐いた台詞と、おそらく渡したであろう胡桃を渡す。そしてジョーンは前者を見届け、後者を事後発見し、これまで奮い立たせてきた自尊心が砕け散りかかる。また、授賞式で夫が表彰されるのを見届けさせられることで、彼女自身の才能を活かせなかった後悔・時代への恨みは頂点に達し、自尊心は崩壊させられる。それでも、自分が書いたのだと言いたそうで言いたくなさそうな、ジョセフへの愛情と文学創作への熱意との間で揺れ動く演技は素晴らしい。
ノーベル賞受賞と共に行われる夫婦関係の総決算
授賞式が終わり、ジョセフに離婚を持ち出すジョーン。その言葉に平常心を保てなくなると、何かと嘘を吐いたり、ジョーンに責任転嫁したり、謎のそもそも論を持ち出し優位に立とうとする。確実に病院に行った方がいい。
そんなやり取りをしている間に、ジョセフが心臓発作を起こすのだが、そんなジョセフをジョーンは見捨てず、最後まで手を握り続ける。そんなジョーンに反するかのように、自分への愛の囁きを乞い、「何が真実かわからない」と自己中心的で無神経な性格を最後まで見せつけるジョセフ。
こうして二人の共依存関係には終止符が打たれる。
息子の言い放った「奴隷」は存在したのか?
上述通り、ジョセフとジョーンは共依存関係を続けてきた。ジョセフは一方的に名声を手にしているように見えて、それらと同程度の、自分のキャパシティを超えた「自分には文学的才能がないのではないか」という強迫観念や、それに伴う将来への不安と長期間戦い、自尊心を刺激しない相手との不倫で何とか紛らわさないとやってはいけない男だった。ジョーンもまた、ジョセフとの別れが惜しいが余り、彼の着想を基にゴーストライターとして執筆し続け、才能を活かせなかった後悔を胸に秘め続けてきた。
そんな二人の共依存関係が幕を下ろし、彼女が本から顔を上げる仕草で映画は終わる。彼女は自立し、この二人の結末をもネタに、執筆していくのではと思わせるラストであった。
なぜ今こそ人事戦略なのか
先月くらいから、なんとなーく次は人事コンサルに挑戦してみたいな~と思っているのですが、なんとなーくでは何も始まらないので、なぜ今人事戦略が必要だと考えているのか、簡単に整理してみようかなと思います。
目次は下記の通り。
日本の国際競争力の低下
日本の総合順位は30位と前年より5つ順位を下げ、比較可能な1997年以降では過去最低となった。(中略)日本は判断基準となる項目別で、「ビジネスの効率性」が46位と低く、ビッグデータの活用や分析、国際経験、起業家精神は最下位と厳しい。IMDは企業の生産効率の向上に向け、働き方改革や人材開発を一層進める必要があると指摘した。「政府の効率性」も38位で、巨額の政府債務や法人税率の高さなどが重しになっている。
- 日本経済新聞(2019)「日本の競争力は世界30位、97年以降で最低 IMD調べ」
高度経済成長期とは打って変わり、現在の日本の国際競争力は転落し続けている。上記のような状況は今度より明瞭になっていくと考えており、その理由を下記する。
日本の少子高齢化(労働力人口)の減少
日本は世界でも有名な少子化・高齢化大国であり、言い換えれば、労働人口一人あたりの生産量(生産性)が高くなければならない国だとも言える。ただし、その阻害要因が大きい。
国有問題として資源が非常に少ない
日本はエネルギー資源、鉱物資源ともに産出量が非常に少ない資源小国である。石炭を除くエネルギー資源の多くを輸入に依存しているのが現状であり、そのような制約の中でかつて先進国にまで這い上がれたのは、やはり教育への投資と、他国から学問・技術を積極学習したことが多いと考えられる。
なぜ日本はここまで経済成長できたのだろうか。記事は、4つの理由が考えられると分析。その1つが「米国の援助」で、戦後に米国の保護下に入れたことが大きかったとした。次いで「教育に力を入れたこと」が成功したとも指摘。義務教育の無償化という思い切った政策を実施したのが功を奏したと称賛した。
3つ目は、米国などの西洋国家から意欲的に「技術、科学技術、管理を学んだ」ことにあるとした。日本は1950年から70年代半ばまでで2万5000以上の技術を学び、さらに終身雇用制を導入して安心して働ける社会にしたと評価した。そのおかげで、日本は今ではハイエンド製品の製造業で非常に強い競争力を持っているとしている。そして最後には、「科学者の社会的地位が高い」ことを指摘。政治家やアイドルよりももてはやされるので、日本にはノーベル賞受賞者が多いのだろうと伝えた。
- Searchina(2019)「資源が乏しい日本は「どうやってこれだけの経済大国になったのか」=中国メディア」
低生産性的な、体育会系的な文化や努力評価的な風土
上述のように、日本のような資源の少ない小さな島国では、人材の生産性向上を目指すしか国際競争力を高める手立てがないのだが、それらと相反する文化や風土が未だに色濃く根付いている。トップダウンで守破離を重んじ、行き過ぎたハラスメント文化、また、成果よりも「どれだけ努力したか(したように見えるか)」で評価する人事評価が多く、社会人の多くは処世術(上司に媚びを売ること)を身に付けることに努力を惜しまず、また、上司もまた推奨するため、理不尽な事件がまかり通っている。
現状のままでは、日本を牽引する人材は育たず、改善も見られない
上述の通り、とてもじゃないが、劣勢に回った国勢を挽回させられるような、企業を牽引していける人材は育つ環境にない。また、上述したような文化・風土が根強いままでは、経営コンサルタント等を雇い、短期的に業績改善を目論んで各事業戦略や具体施策を提案したところで、満足な成果を上げられるわけがない。
劣悪な労働環境のままでは、人材流出入が激化する
上述の通り、少子高齢化による国内人材の大幅な不足による海外人材の流入に加え、それらに感化された国内人材の他企業への人材流出が激化することが予想される。
グローバルなニーズに対応出来ない
情報技術の発達により、消費者のニーズは国ごとに断絶されず、より流動的に、かつ影響し合っている。日本特有の劣悪な労働環境のままでは、グローバル化していく消費者ニーズに対して対応出来ず、より国際競争力を下落させていく結果となる。
結論:兎にも角にも大きな経営基盤となる人事戦略のグローバル化が必要
現在の労働環境(労働生産性)のままでは他国に勝つことなど不可能なため、まずは経営基盤である人事戦略に力を入れ、グローバル化していく消費者ニーズに対応出来るよう改善していくべきではないだろうか、という話。
なんで勉強しなきゃいけないんだろうね
私は生来ひねくれた性質をしていて、指示されたことをその通り実行することにとにかく反感を覚えてしまい、なぜしなければならないのか・そのようにしなければならないのか…と色々訊かないと済まない人間でした。それはかなり先天的なものに近かったので、両親は私を「salmon_mogmogは万年反抗期だから仕方がない」と諦めてくたものの、両親それぞれの思想・性格・精神状態とそれによる互いの関係性によって、ほとんどネグレクトされて育ちました。小学校低学年までは祖母が母親代わりに成育・教育してくれ、また金銭的には豊かな家系でしたので、何とか自我形成を済ませることが出来、「実家にはなんか放置されてるけど、このまま放っておいてほしいな」くらいに思えたので、恵まれていたと思います。ただまあいくらネグレクトされていても、学生時代には両親が介入せざるを得ないイベントが何度かある。
そう、進学受験です。
中でも一番揉めたのが高校受験でした。中学生というと成人まで3/4といったところで、まだまだ両親にとってマウントを取れる位置にあったのもあると思いますし、≒で志望出来る大学までもが決まってしまう一大イベントなので、より躍起になっていたんじゃないかと思います(あとは大学受験時は母親の精神状態がより悪化していた)。
勉強は基本的に大嫌いで、毎日夜中まで友達と携帯メールやSkype通話をしているような子供でしたが、学生時代の資格や試験に向けた勉強は授業にさえ出ていれば割と出来る方だったので、基本的に両親は不介入のままやってこれていました。そして高校受験についても、地元の公立進学校への学力推薦が決まっていたため、途中まではその関係性が続行されていました。が、色々あって自暴自棄になり、進学校の次に最寄りの、ただし進学校からは偏差値を20近く落とした公立高校に行きたがり始めてから(理由:推薦落ちて一般受けるのがダルいから。あととりあえず近いから)、状況が一変し、教員と両親からの四面楚歌状態に陥ります。
結果的に言うと私は当初の意思通り、進学校の次に最寄りだった公立高校に進みます。それは彼らへの反抗心からと言うより、単純にその頃、偏差値の高い高校に行って勉強する意義とやらが分からず、自堕落な生活を取ったためです。
前置きが長くなりましたが、私は上述の選択を非常に後悔し続けています。あの時、その意義を教えてくれ、納得させてくれる教員が存在していたなら、また、自分一人でもその意義を発見出来るほど成熟していたなら、私は一般入試で公立進学校に進んでおり、人生を踏み外さなくて済んだと思います。
私自身の人生は取り戻せませんが、過去の自分という概念に向け、個人的な勉強する意義を綴っておきたいと思います(残念ながらMECE性は無保証)。
ちなみに、私の考える勉強と、類義語である学習の定義は下記の通りです。一般論では学習≒勉強とされていますが、本来的には学習⊃勉強と考えます。
勉強:学問に注力すること
学習:自身を取り囲む環境において起こる事物から広く学ぶこと
また、過去の自分のようなひねくれ者に勉強する意義を話したところで、あまり意義を見出してはくれなさそうなので、一旦学習ベースで6点説こうと思います。
大抵の問題は理論と論理思考を用いれば一瞬で片付く
私にとっての人生は一度目ですが、人間にとっての人生としてはn回目なわけです。要するに、大抵の問題は自分よりも遥かに優秀な人間達が、どのようにして解けばいいかの理論をすでに用意してくれている。人生が3,000年くらいあり、文化も技術も何も発展していかないのであれば、全てに対して初めて対応するゆるふわペースでいいわけですが、如何せんそうじゃない。解き方があるものは理論をベースに仮説検証して効率よく、そうじゃないことにじっくり時間をかけていかないと、一向に何も出来るようになる気配はない。が、逆に言えば、理論さえ知っていれば、例えば企業が事業において各プロセス毎にどのような価値を創出し、顧客に届けることで、競合他社に対しどのような差別化を図っているか等、ぐんぐん分かっちゃうわけです。そして言わずもがな、より高度な理論や、論理思考の培い方を教えてもらえるのは高度な人材・情報(知識・ノウハウ)の集まる高度な学校が殆どです。
※「企業が事業において各プロセス毎にどのような価値を創出し~」:マイケル・ポーター(1985)『競争優位の戦略』にて掲載のバリュー・チェーン(価値連鎖)理論より。詳細は下記参照。
学歴は無条件に自身のスペックを保証してくれる
ある程度の学歴を有するためには、幅広い知識を有することや、それらを応用した問題解決能力、また、ゴールに到達するための効果的・効率的なルートの導出力と、自身のスペックを考慮した達成スケジュールの描出力、達成に向けて着実に実行する精神力等、が必要になると考えられます。逆に言えば、高学歴とは対外的に上述した要素を初対面の相手に勝手に保証してくれる証明書となります。具体的な活用先が就活です。現在でも学歴フィルターなんぞというものが裏では存在しますが、上述の通り効果的効率性が担保された策ですので、その際には大変有効です。私は学生時代に大人に混ざって事業に挑戦したりし、ESの記述内容も相当考え込みましたが、くそつまんないES書いてる高学歴に篩い落とされ、書類落ちすることが殆どでした。
選択肢が広がる
ぶっちゃけこれは子供向けによく言われるやつですが、個人的には学歴の有効性よりも、人生におけるより広義な選択肢として挙げました。例えば、人生の転機では、現在持つ知識の中からやりたいこと・やらなければいけないことの種(N)を見つけ出す必要がありますが、知識(Nになり得るn)≧Nとなっていなければ見つけようもありません。そのためにもより多くの情報に触れ、思考し、より広く深く理解していくことは、人生を豊かにするために大変有用です。
知識を有さなければ、現状を正確に認識出来ない
自分のレベルを数値で示してくれる進学受験からは少し逸れますが、そもそも勉強して知識を常に吸収していかなければ、物事を多面的な視野・視座で眺め、正確に状況を認識することは出来ません。認識出来ないものについては思考しようがなく、思考出来なければ何らかの改善に繋がらないので、一生そこに突っ立っているしかありません。知識がなければ、評価が環境に依存する物差しだと気付くことも出来ないため、おそらく自分は何がどの程度出来る何者なのかさえわからない(無知だとさえ気付けないのはこのため)。
ツールがあっても知識やスキルがないと使いこなせない(豚に真珠)
情報技術は日々発展してゆくため、自身に積極的に学ぶ姿勢がなければ、そもそも存在自体知ることが出来ない。存在しない相手と自身を対比させることは出来ないため、何が不足しているかもわからず、利便性の高いツールを与えられてもどうしようもない現実が待っている。逆もまた然りであり、敵を知り己を知れば百戦危うからず。
学ぶことをやめること=老害と化すこと
下記、おっさん(老害)の4大特徴もあるように、たとえ若年であろうが学ぶことをやめ、自らの固定観念を取り外せず、自尊心が巨大化していくと、老害(自己愛モンスター)と化し、滅びを待ちゆく(何なら促す)だけの生き物となります。
おっさんの4大特徴
- 古い価値観に凝り固まり、新しい価値観を拒否する
- 過去の成功体験に執着し、既得権益を手放さない
- 階層序列の意識が強く、目上の者に媚び、目下の者を軽く見る
- よそ者や異質なものに不寛容で、排他的
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学歴云々どころか、やがて人の皮を被った何かになり、そうなったことにも気が付けない惨めな人生を送る羽目になります。
過去の自分への回答
上述の通り、学習というのは「生涯学習」という名の通り生涯続けるべき事柄であって、高校受験が終わろうが死ぬまで終わらない。勉強であっても就職後もある程度は必要であるし、やっていればいるほど課題がイージーモードになりやすい。
ただまあ中学生で、理不尽や面倒を嫌う君には、上から3つ辺りの意義が響くのではないでしょうか。これから待ち構えるそれらをきっと少なくしてくれることでしょう。
…とか何とか色々と考えていたことを整理してみましたが、勿論、意に反して自堕落チルドレンになっている皆様は除きます。辛いよね、休もう。