【ネタバレ注意】映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の感想
クソ映画派と神映画派で分かれているこの映画ですが、個人的には至極単純に「我々の求めていたエヴァではなかった」に尽きると思っています。
理由としては、ストーリーの内容云々というよりも、シン・ゴジラ同様「話せば分かる世の中の理をわざわざストーリー仕立てにしてあげている点」と、「映画の私小説化(私物化)が激しかった点」にあります。
今回は上記2点について個人的に思うところと、各章での感想をざっくばらんに書いていきたいと思います。
単純論理をストーリー仕立てにして感動を煽る点
これはシン・ゴジラで例えると「ゴジラという巨大生物(大災害)が登場した際に、民主主義の政治では緊急事態においても稟議が多く対応が遅れる」という至極単純な論理(教科書で習う内容)をストーリー化し、文章では分からない人々に「民主主義の脆さ」を教え仕立てあげました。
今回のシン・エヴァも同様で、「LCLの海でしか生きられないアヤナミレイ(仮称)が人々と同じ生活を送ったらどうなるか」をストーリー仕立てしただけのものでした。
が、そこにとても反響は大きく、アヤナミが小さなことを1つずつ覚えて成長していく過程、とその一方で普通の生活では生きられず命を落とす過程に、3.11を投影した方も多かったと思います。
これ自体が悪いとか思いませんが、我々の観てきたエヴァという作品(ストーリー)は、「難解かつ考察が出来るもので、と見せかけてどこかに矛盾点がありつつ、複雑な人間関係やそれらによって生ずる愛憎」でした。
ですからここに突然シン・ゴジラ流のストーリーを混ぜてもらうと困るのです。
我々はもっと、例えば「フォース・インパクトを起こし意気消沈しているシンジの元に死んだはずの別の世界線からやってきたカヲル君がやってきて、「(not)と(not)の付いていない世界を全て清算すれば、エヴァに乗らなくていい未来が訪れる」と教え、それを機に一念発起したシンジがもう一度エヴァに乗り世界と立ち向かう」とかです。
ラストは例えばユイ・ゲンドウ・シンジが揃う家庭で、アニメのように例えば幼馴染のアスカに手を引かれながら学校に走っていく、とかであれば最高でした。
が、現実はそうではなく、シン・ゴジラさながらの「言えば分かることを映画化してみた」でした。
映画の私小説化(私物化):庵野と安野の物語
あるエピソードでは、エヴァの総監督である庵野秀明が、アスカ役の宮村優子に告白していた、というものがあります。
その願望(宮村優子:アスカとくっ付く)が表れているのがアニメ・旧劇場版で、シンジはアスカと愛憎渦巻く気持ちを抱きながらも、主人公とヒロインは世界に2人だけになりました(まあその後生まれ変わるストーリーが作られていくのですが)。
アニメ・旧劇場版が終わったところで出会ったのが現在の庵野秀明の妻・安野モヨコで、シンジが庵野の投影であれば、安野を投影するキャラクターと、アスカをヒロイン格から落とす必要がありました。
そこで出来たのがおそらく真希波と式波かと思います。
式波・アスカはケンケンとくっ付き、シンジ(庵野)は真希波(安野)とくっ付き、2人だけで(他キャラクターは虚構に残したまま)現実世界(山口県宇部市)へ走っていく。
そんなストーリーになりました。
元々庵野の精神状態を投影されたアニメなんだし、と上記を受け入れられた人もいるかもしれませんが、私としては「過去好きだった人に告白」したり、「現在の妻とベタベタ」したりするのは、アニメ・旧劇場版を観ていた側からするとストーリーの逸脱が見られ、あまり気に入りませんでした。
一言で言うと「シンジに精神状態は投影しても、映画自体まで私物化するな」です。
ざっくばらんな映画の感想(箇条書き)
- マヤの「これだから若い男は」。旧劇場版なんかでは巨大リリスに超怯えてたりしてたので強くなったなと感心した
- マリ「どこにいても必ず見つけ出してあげるからね、ワンコ君」、シンジに突然そんな思い入れ強くなるか?違和感大
- レイが委員長(や他の女性にも)に1つ1つ訊いては理解していくシーン、「子供は女が教育するもの」みたいな固定観念が見え透いてて気持ち悪かった
- アスカ「ケンケン」+裸。そういう関係になっていることの表し?
- ていうかケンケン、髭とか加持さんに似てる。前世で加持を大人の象徴として求めていたことの引き摺り?一方で加持と対比して全然仕事してないんだが
- アスカにもDSSチョーカーあり。使徒の力を私物化しないように?
- アスカ「サードのことを好きになるように設計されてる」。庵野そんなみんなにモテたくて堪らないのか?
- アスカがシンジに「好きだったわよ。でも私の方が先に大人になっちゃったわね」。それに対しラスト近くでシンジが「僕も好きだったよ」。そこで惣流かつ照れてるなら大人になったシンジなら一緒になれるんじゃない?なぜお互いを引き離す?
- レイ「名前、決めてくれた?」→ユイがゲンドウに訊くシーンの対比?
- 加持リョウジ君、父親と同じ名前ってやばすぎ
- マリ、アスカにべったりしてるがラストはシンジ。漫画と違ってバイ設定?
- リツコが躊躇わずにゲンドウに発砲出来たのはアニメ・旧劇場版との違って生まれ変わってることを象徴してた感じ
- サクラの「怪我したらエヴァに乗らんでいい、痛いけどちょっと我慢してくださいね」、メンヘラすぎて暗いシーンなのに笑う
- ミサトとシンジの抱擁。もう大人のキスをして無理に大人にする必要はなくなったんだね。一方で、シンジ君そんな急に大人になれるシーンあったか?
- ゲンドウ・シンジの親子対決、いきなり特撮化してシン・ウルトラマンの番宣だろやめろってなった
- あとゲンドウ、インパクトの意味を早口で喋りすぎ。それぞれ意図してたし意味はあったんだろうけど視聴者を置いてけぼりにしないでくれ
- ミサト、生まれ変わっても死に方格好良かった
- ゲンドウがシンジを見て「ユイ、そこにいたのか」ってやっと気付くシーン。遅すぎ
- エヴァを全てガイウスの槍で刺す時にユイがシンジを突き放す。ユイがこのために初号機内に意図的に取り込まれてたのだとすると、全てはゼーレとユイのシナリオ通りってこと?ユイの先読み力
- 予想通りアニメ・旧劇場版から序・破・Qは全て繋がっていた(転生後の世界)
- カヲルの「今度こそ君だけは幸せにしてみせるよ」はループ説を知っていたと思われる。アダムシリーズ・ゼーレは色んな世界線の記憶あり?
- シンジ、なぜ大人=スーツという安易な解釈の格好で現れるの?笑う
- 真希波、「胸の大きないい女」とか昔好きだった女の息子に覚えさせてるの気持ち悪すぎ
- あとDSSチョーカー誰も外してくれてなかったんかい、なのに大人にはなれたんかい、そして真希波は外せるんかい
- レイとカヲルとアスカは虚構にいるまま、シンジと真希波だけ駅から出て現実に走っていく。え、自分達だけ虚構からさよなら?(真希波は「波」って付いてるけど人造人間じゃないの?同じ人造人間ならアスカで良かっただろもう)
- 総論:詰め込みすぎてよく分からなかったし、単純論理をストーリーに混ぜてくるのと映画の私物化は絶対にやめろ